キリスト教徒としての恩恵というのは、逆境に立ち向かえる強さだと思います。
多くの聖人が殉教されたり、迫害に悩まされていました。集団ストーキングもある意味、聖書にあるユダヤ人の長老と群集によるキリストの迫害に似ています。十字架の聖ヨハネ(St. John of the Cross)は、宗教観の違いから牢屋に閉じ込められました。聖ペトロ、聖アガサ、聖アグネスなどは殉教を進んで受け入れました。旧約聖書にも豚肉を食べるくらいなら死んだほうがましだと言った人もいます。母親と子供たちが残虐な手段で一人ずつ殺されても宗教を守った例も載っています。
今の時代、聖人と同じ道を歩める機会はほとんどありません。国によっては戦争や内乱などで教会に向かうことすら危険を伴う場所もあるでしょう。でも、どういった生き方をして死に至ろうと私たちの人生は自身が満足するべきものであるべきです。自分の大切にするものを捨ててまで命乞いをするのは、本当の意味での人生を歩めないのかもしれません。ソクラテスが毒を飲むことを恐れなかったのも、人生の意味を悟っていたからだと思います。セネカは悲観するよりは学習に時間を費やせと母親に手紙を書いています。
信念というものは、弱い人間には持てません。
十字軍は片手に剣を持ち、もう一方の手にはロザリオを掴んでいました。私は、ロザリオとペンを武器に信念を貫くつもりです。「ペンは剣に勝る」という言葉があります。
恐れというのは、誰にでもあります。私もドイツ辺りまで逃げたときは恐怖を感じていました。ただ、その後ルルドで奇跡の水を体に浴びて、聖ベルナデッテや他の聖人の苦労を知ったら、恐れに心を惑わされるのは馬鹿らしいと気づきました。人は何故恐れるのでしょうね?神がすべてを作られて、私たち自身も神の御心のもとで生まれたのなら、神の意思で起きる事柄になぜ恐れる必要があるのでしょう?聖書では、神を恐れよと書かれています。私は、神の子が神の御意思によって十字架に掛けられたことを知っています。そのことは預言者によって予言されていて、起こるべきことでした。
私たちは実際に聖書の最終章を経験しています。信心深い善良な人々は偽善者と偽預言者によって迫害を受けています。宗教の多くが実際に政府機関やその他の機関のために利用されています。某国の大統領が聖戦を宣言して、戦争を始めました。聖書にも偽のキリストは人々を彼がキリストだと信じさせると書かれています。イスラムの原理主義は誰が開発したのでしょう?某国の政府機関が関わっています。世界の多くの国は某国の配下にあり、批判した政治家は暗殺や醜聞を広められます。2012年まで、あと少しですが、実際の世界政府は聖書の予言の通りに多くのキリスト教徒の虐殺を経て聖母マリアの勝利で終焉を迎えるのでしょうね。私は聖書の中の聖人たちのように避難場所を頂きましたし、充分な数の奇跡を経験させていただきました。殉教者の一人として、倫理的と宗教的に正しいと思われることは、これからも訴え続けていくつもりです。
集団ストーキングに悩まされて孤独に悩んでいる方へ。聖書を読んでみてください。聖書には多くの迫害を受けた人たちの例が載っています。キリスト自身、迫害を受けて殉教していますし。過去に弾圧を受けた人々からも学ぶべきことがあります。聖書を読んでロザリオを祈るだけでも、立派なクリスチャンです。
In nomine patris, et filli, et spiritus sancto, amen.
24 December, 2007
キリスト教と集団ストーキング(クリスマス前夜に向けて)
Posted by JB at 4:02 PM
Labels: Christianity, Diary
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
0 comments:
Post a Comment